すーんだい

浅い思考は、人の深い思考を促す

ヒト

昨日は朝早く(と言っても8:00)から病院で定期検診、心電図をとってはい終わり、結果はいつも通り不整脈。素人が見てもどこが正常な人と違うのかが分からないぐらい細かい違いだし、健康にもあまり影響がない。突然死するとしても0.5%未満の確率だという。普通の人じゃん。



今回はヒトの生き方について深く掘って行きたい。

まず「ヒト」という表現は普通の「人」とは違い、生物学的な範囲での生物を表す。
例えば「人から生まれてすぐに森に捨てられ、狼に育てられた生物」というのは、紛れもなく「ヒト」ではあるが行動や文化は「人」とは全く異なるものであろう。

この「ヒト」という生物は地球の長い歴史で進化をしながら生き抜いてきた生物であるのは今生きている私たちがよく知っているだろう。その過程で、猿人から進化した現在の「ヒト」とは別にアウストラロピテクスなどの種属は絶滅した。絶滅した明確な原因は明かされていないが、はっきりと言えるのは「自然に対応できなかった」という事だ。

同じく、首の短いキリンと長いキリン、食料をより多く確保出来た首の長いキリンが生き残り、他のキリンは自然淘汰された。
このように生物の進化は常に「自然淘汰」とセットで存在する。

しかし、今の人は脳を発達させた結果、自然の摂理の枠組みから抜けようとしている。


人と助け合うことで生き抜いてきたヒトは助け合いをより強固なものにするためにコミュニティを広げていった。これが「社会」の誕生である。

この「社会」は川沿いにおいて「文明」によってさらに発展していき、「経済」という概念が作られた。「経済」の概念は長く続き、人は「社会」を通り越して「経済」を発展させることに重視するようになり、本末転倒なことに「経済」を発展させるために「社会」に所属するという事態が起きる。
(これは人間が成し得る思考のひとつ「簡略化」が原因であるがそれはどうしようもなかった)

この社会に所属するために人は義務教育を受け、義務教育でも無い高校に入り、大学まで進学する。「社会」に所属するために。安定した地位を築くために。ほとんどの人がそう考えるようになった。

これを目的とする人が恐れているのが「自然淘汰」とは異なる、別の淘汰、「社会淘汰」だ。
「社会淘汰」は「社会」から外れないと発生しないため、滅多に起きない。
そして「社会淘汰」の対義語に近い「社会包摂」というのがある。

「社会包摂」は「社会」所属する全ての人を守るという事だが過保護であるが故に「自然淘汰」を無視して働く。「社会」は自然の摂理を超えたのだ。



自然の摂理を超えた生物は今後、自然の法則が適応されないかもしれない。中盤で言った「進化」は「自然淘汰」がなければ出来るはずがない。


もしかしたら、この行き止まりのような状態を打破することが「進化」のきっかけに繋がるのかもしれない。