すーんだい

浅い思考は、人の深い思考を促す

タヒ

ベイダーのブログ(https://note.mu/bonaparte0804/n/n04894f9769b5)を読んで端的に言って面白いと思った。
テーマがまとまってないのに色んなことを語りつつ、流れがある。話の繋げ方が上手い。
この流れるような語りの中に話題の展開点がいくつもあったのでひとつ選んで今回のテーマにしてみる。


タヒは全ての人に共通して存在する概念、そして事実である。たとえ一瞬であったとしても、誰しもが考えることであり、誰しもが興味を持ち、誰しもがそれに怯える。

科学的な観点から言うとタヒは肉体、精神共に生命維持の限界を表す。これ以上は特にはない。事実を伝える科学にはこれが精一杯である。

今度は哲学的な観点から見ていこう。タヒは哲学者によって様々な捉え方がある。ある人は「何も無い状態だ」と言い、ある人は「別の世界(良かれ悪かれ)が広がっている」と言う。
この間言った「生きる目的」には「幸せになるため」というほとんどの哲学者の答えが一致していたのに対して「タヒについて」はバラバラなのだ。

ここからは自分の自由に「タヒ」について考えていく。タヒに対する興味を持つところから始めよう。

ニュースで誰かが亡くなった、
有名人が亡くなった、
友達の親戚が亡くなった、
友達の家族が亡くなった、
友達が亡くなった、
4等親以上の親戚が亡くなった、
家族が亡くなった。

少しずつ世界を近ずけていく。怖いと思う人もいれば、当然だと受け入れる人もいる。はたまた何も感じないという人もいる。中には建前国家に住んでいるが故に「本音としては何も感じないけど、建前として怖いと思った」という人がいるかもしれない。タヒの感じ方には答えがあるわけないが、小学校の国語の授業のようなことが起こりうる。


近年タヒという概念はほとんどの人にとってほんの僅かであるが遠くなりつつある。平均寿命が伸びたことにより、子供が生まれてから思考形成される成人になるまでに親がタヒぬよりも祖父母がタヒぬことが多くなり、曾祖父母がタヒぬことも起こりうるようになった。つまり身近なタヒが減りつつあるという事だ。

タヒに対する興味が実は年々失われているとしたら、現在の少タヒ少生から多タヒ少生の時代を迎えた時に、どのようにタヒを受け入れてよいか分からず、精神的な大崩れを起こす可能性はゼロではない。


まずはタヒへの興味を向けることから始めてみよう。
※興味の目的は自分がタヒぬ事ではなく、タヒを目前にして残された生に意味をもたらすことへの可能性を探る事なので悪しからず