すーんだい

浅い思考は、人の深い思考を促す

未知

明日から遂に監獄、授業中施錠はっょぃ。予習何すりゃいいんだ。数学、英語の教科書の前書きに予習の仕方書いてあったけど化学どこにも書いてねーじゃん。駿台生なのに予習してねーじゃん(cv.寺田心


とりあえず今回は予習という未知の領域を前にして、現実逃避するために駄文を貪る。



「未知」に対面した時、人はどう振る舞うべきか。
「未知」恐ろしい、そもそもそれに対する概念すらなかった状態から一変したのだ。人に残された選択肢は2つ。理解しようと努力するか、逃げるか。

逃げるのはとても簡単なことだ。「未知」を許容できる人にとっては簡単なことだ。逆に許容出来ない人にとっては努力せざるを得ない状況に置かれる。

この「未知」に対して理解しようと努力することが幸せに感じる人がいる。それは研究者や哲学者、知識人など、知を開拓、探求することを拠り所とする人達だ。自分もこの集団に入っているものだと信じたい。

理解に費やす努力は個人差がある。それは環境や行動など、些細な出来事が積み重なって幅を持つ。
ベイダーのブログ(https://note.mu/bonaparte0804/n/n8e6813bb59d5)にもあったようにこれも「生物多様性」と言えるのかもしれない。

本来の「生物多様性」はある種において一部が突然変異することによって生まれる。すると、自然災害などの天変地異が起きた時に少しでも生き抜くことが出来れば子孫を残すことができるというものだ。(ざっくり言うとこれが「進化」)

話は逸れたが、人間の世界(社会)にも「生物多様性」があり、完璧な人間もいれば、そうでない人間がいる。
生物多様性」のような幅があるから「人間らしい」とも言えるのではないだろうか。


自分は「生物多様性」の幅はもっと広がってもいいと思っているので、その幅を広げるために
明 日 の 予 習 は し ま せ ん 。
これぞ「不完全人間」。「未知の領域」